聖書個所:詩篇133篇1節〜3節(新改訳)

『兄弟たちの和合−一致−』


心の風邪であるうつ病

 今月半ばに、「今日的うつ病の問題」というセミナーに出席した。 そのセミナーで教授が言われたことには、今日、うつ病で病院にかかっている人は、100万人くらいいるとのことだ。 それは130人に一人という割合であり、日本の人口の1%近い割合である。 これは、受診した人数なので、実際のうつ病患者は、もっと多く、人口の3%と言われる研究者もいるそうだ。 また自殺者がここ13年間連続して3万人を超えていて、そのうちの60%はうつ病によるものと考えられているそうだ。 これは交通事故死の4、5倍だそうであるが、どの世代に多いかというと、昔は20代前半に多かったのが、最近は50代に多いという傾向があるということである。 震災から8か月、心病む人は、更に増えていくと思われる。うつ病は早期の対応で防げるもので、また「心の風邪」と言われ、必ず治るものであるが、こじらせることで死に至ることもあるそうである。

 今日読んだ詩篇は、表題に「ダビデによる」 とあるが、これはダビデを記念するという意味の「ダビデのための」とも訳せる語が使われていて、捕囚帰還後の時代の作という見解もあり、必ずしも作者がダビデとは限らないと言われている。 とはいえ、作者が誰であっても、兄弟姉妹が一つになって、共に住む喜びを詩っているものである。今日の主題となる1節のことば、口語訳では、 「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) とある。ただ義務的に一緒にいるのではなく、仲睦まじく平和に一緒にいる一致を語っている。

4枚の絵

 日本のリバイバルを祈る中で、私はカウンセリング伝道に導かれました。 リバイバルに必要なものはキリストによる愛の一致だということを長年の試練の中で学んでのことです。 この3月に私は神学校を卒業しましたが、神学校に入る前の7年間は、小岩栄光キリスト教会のブランチとして、教会に行けない人たちとともに、日野の地区で落ち穂の会という礼拝を持っていました。 それぞれ全く異なっている3つの正統な教会を主に導かれて通り抜けた末に、与えられたビジョンに従ってのことでした。 このビジョンについて、今まで私に与えられてきた幻が4枚の絵で残されています。 1枚1枚は、それぞれその時に応じて、与えられたものです。(著作権があるので、サイトでは紹介できません<m(__)m>)

 救われてすぐ(1994年)、礼拝を守るためにある試練が起こりました。 その時の所属教会の牧師先生に相談しようとしたところ、「君は、そのようなことで悩んでいるのかね。世界にはもっと大変なことで悩んでいる人が多くいるんだよ。そのような悩みは5年もすれば忘れているよ。」という一言が返ってきました。 その時、私は、こう思ったのです。「カウンセリングは賜物なんだ。教会にはカウンセリングの賜物を持った人が必要なんだ。」(幼い信仰ゆえの間違いです。) こう思った私は、祈りに覚え、賜物を持った誰かを送って下さるように祈り出しました。 また、この頃、カトリック信者の義理の姉から「プロテスタントは分裂分派や異端が多い」と言われていたので、マルチンルター以来、分裂分派を繰り返していることへのとりなしと一致への祈りを始めました。 3年弱が過ぎた時、夫の実家の近くの教会(アッセンブリー教会)で見た絵が妙に心に焼き付いて離れない、ということがあり、譲ってもらいました。 崖から落ちてけがをして歩けなくなった羊を、救おうと手を差しのべている羊飼いの絵でした(1枚目)。その直後、とあることで、1つ目の教会を出されたのです。

 2つ目の教会の初めての礼拝で目を閉じて「キリストには変えられません」を賛美している時のこと、 「大きな傷から血を流している羊が、イエスさまの足元に来て受け入れられる」光景がすっと現れ、消えていきました(2枚目)。 この時、この幻が教会から譲り受けた1枚目の絵とリンクし、大きな慰めを得ました。 メッセージや交わりですっかり癒され、1年半ほど過ごした頃、ある姉妹が私と祈った時に異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたことで、教会にいられなくなってしまいました。

 この姉妹を教会につなげようと行った3つ目の教会は、伝道熱心な韓国の長老派系の先生の教会でした。 訪問伝道をしていると、外国の気さくな先生だったためか、牧師の訪問が珍しかったからか、わりと戸を開けて話を聞いてくれたんですね。 意外だったことに、狭い町の中、過去に教会に行ったことがあると言う方が結構いたんです。そこでは1年弱過ごしました。

 3つの教会を出された私は、気付くと深く祈れなくなっていました。 この頃、2つ目の教会から信仰を共に歩んで来た友人がそばにいて、祈れない中、ともに支え合っていました。 ある時、主に心を注ぎ、祈っていたところ、私にみことばが、友人に幻が与えられました。 主は、小さな洞窟の中で小さなランプの暖かな炎が暗やみを照らしている光景(3枚目)を見せると同時に、 「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」(伝道者 9:8)と、祈りの炎を絶やさないよう言われたのです。 また、この後、帰宅して祈っていると、2人同時に同じみことばが与えられました。 「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、 ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。 万軍の主の熱心がこれをする。」(イザヤ 37:30-32) こうして通常の教会の交わりから絶たれた人のために、「落ち着ける教会が見つかるまで」という条件の下で、家庭を開き、礼拝を始めました。 当時学んでいたカウンセリングスクールに来ていた人の紹介で、吉山先生のサポートが得られることになりました。 何人かの人たちが礼拝に集い、マンションで開いた「ごすぺるの会」にも近所の人が集まり、友人の家族も救われていったのですが、通ってきた状況ゆえに、教会から離れての牧師不在の礼拝には、 安心感がなく、6年が過ぎた頃には、限界が来てました。その頃、友人が、この3枚目の幻には「もう一面の光景が見えていた」と違うパターンのものを描きました。 祈りの炎を斜め前方の角度から、見たもので、砂のような土が炎を守るように、覆いかぶさろうとしている絵でした(4枚目)。 よく見ると、ぱっくりと蛇の口になって火を呑み込もうとしているように見えました。この絵をいただいた後、私にはこれが気味悪く思えてきて、返してしまいました。 返した翌日、心に響く声がありました。「祈りの炎を消そうと呑み込もうとするものは、あなたは今まで戦っていたものではないか。気味が悪くて当然だろう。」 私はこの時、主が描かせた絵だということを知り、友人を信じきれなかった自分にも気付きました。 友人に謝罪した時は、もう遅く、関係は悪化していきました。この絵により、神の子同士の関係を崩し、一致を妨げようとしているものが存在し、教会が本来の力を出せないでいることも知りました。

 友人とのメールのやりとりがあったある日、職場でメールを見た時のこと、頭が締め付けられるように痛み、 「こうやって、人は心がおかしくなっていくのかぁ。牧師先生は、このような重圧に耐えて牧会しておられるのだなぁ」と思った時、3つの教会でのことが理解できたのです。 そして、支え合う(特定ではなく)多くの兄弟姉妹の必要、教会の必要を改めて悟ったのです。 友人を誰かに託さないと、共倒れになる!と思った私は礼拝を閉めました。 放心した状態で、年末断食聖会に臨み、これからどうしたらよいかと、今までなぜこのような道を通らなければいけなかったのかと、主に尋ねた時のこと、最終日に 「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師記 6:14) というみことばが臨み、再献身の心が与えられました。そして、教会に行けなくなった人たちとの「安心感を与えるためのネットワーク作り」の基礎を作るために、押し出されるように、神学校に入りました。 しかし、7年間心を注ぎ、はぐくんできた礼拝を閉めざるを得なくなったことが、私の心に大きく影響を及ぼしていたのです。 入学して1カ月経った頃のこと、腰に痛みを覚えました。数年前にも椎間板ヘルニアにより、2,3回の腰痛を経験していたので、今回も1週間ほどで治るだろうと思ったのですが、この腰痛は1年間続きました。 時には、トイレにもはいずって行かなければいけないほどでした。また、礼拝を閉める時の頭痛も時々、起こっていました。 頭痛のほうは、いろいろな検査の結果、目の疲れなどから来る緊張性頭痛と言われていました。どのような痛み止めの薬も治療も効かなかった腰痛が、ある時、緊張性頭痛の薬を飲むと痛みがなくなったのです。 その薬は、筋肉の緊張を解くために処方された抗不安薬でした。 心から来ているのか?と思い、カウンセリングではフォーカシングといって、人がまだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向けるやり方があり、 気付きを与えてくれる手法があるのですが、痛みに心を傾けてみました。すると、ひどく痛む中で、「このような体の痛みより、心が痛い…。」と痛みがこう伝えてきたのです。 この腰痛は、それから自分自身の感情をケアしつつ、決められた2回の教会派遣を全うし終えた時に、完全に癒されました。

 ところが、頭痛の方は、ずっと継続しているわけではないので、楽観視していたところ、神学校時代の4年間、事ある度に出現していました。 3年ぐらいすると、頭痛の出るタイミングがわかってきていました。 普段の生活や職場上のことでは出現しないのですが、教会の中で、一致を乱すようなトラウマになっている出来事を見た時に、起こっていました。 時々とはいえ、起こると数日続くこともあり、薬を飲むのもつらくなっていきました。 カウンセリング伝道への道が整ってきて、頭痛が起こらなくなってきて、わかったことは、この頭痛は、行き場がなくなることへの不安による怒りを訴えていたのだということでした。

一致

 教会が弱体化する原因は不一致である。 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(守り続けるように努めなさい。〈口語〉)」(エペソ 4:3)「平和の(つなぎ)のうちに勤めて御霊の賜う一致を守れ」〈文語〉 とあるように、教会の一致は私たちが作り上げるものではなく、既に御霊によって存在しているものとされている。 既に存在している一致を崩そうと人間関係に働いてくる敵がいることを忘れてはならない。

 ある時、1枚の絵ハガキに心が動かされた。十字架を中心に人々が輪になって楽しみ喜んでいる絵であったが、今日読んだ詩篇のみことばが書かれていた。 「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) 聖書を見ると、この様子は、2つの例えで表されている。

一致の2つの例え

 @ 「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」(詩篇 133:2) 大祭司は、その働きにつく時の任職の聖別のため、定められた調合法に従って作られた、聖なるそそぎの油を、頭に注がれた。大祭司は、 「胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯」(出エジプト 28:4)といった 「栄光と美を表す聖なる装束」(出エジプト 28:2) を着用していた(主題からの学び:「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束T)」 「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束U)」 「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束V)」参照)。 その肩には、十二部族を生まれた順に六部族ずつに分けて記名した2個のしまめのうをはめた肩当てが付けられ、その胸には、 十二部族を表した12個の異なる宝石が4行3列にはめられたさばきの胸当てが留められていた。油が 「ひげに流れて」「えりにまで流れしたたる」 と上から下に流れ落ちてくる様子が2度繰り返され強調されている。兄弟たちが一つになってともに和合していることは、神の子たちに流れる天からの祝福のように、喜びに満ちたことである。

 Aもう一つの例えは、 「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3) ヘルモンは、ガリラヤ湖のずっと北の方にある山脈で、聖書辞典によれば、最高峰が2800メートルを越える頂を3つ持ち、長さ32キロにも及ぶ連山であり、そびえ立つ光景は、 周囲の町々から畏怖の念を抱かせるほどであった(ネットで見た雪のヘルモン山は、日本の北アルプス、立山連峰に似た大パノラマの光景のようでした)。 この周囲の地域は乾燥地帯であり、ヘルモンの山頂は、年間を通じて雪で覆われていて、急激に冷やされた大気中の水分が、大量の重い露となって大雨に見えたほどに山を潤していた。 「シオン」 の語源には、「乾き切った場所」という意味がある。「山々におりる」「おりる」 は、2節で2回繰り返し使われていた「流れる」と同じ語が使われている。兄弟たちが一つになってともにいることは、乾き切ったところに流れ、一帯を潤すヘルモンの露のように、 その交わりは、しなびた草木をも生き返らせるような、命の喜びに満ちたものである。

 この詩篇は 「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3)「とこしえに命を与えられたからである。」〈口語〉 で締めくくられている。主がシオンにとこしえに命の祝福を置かれたように、兄弟姉妹の和合・一致に主は祝福を置かれていると、言われている。 教理の正しさとか、正しい行ないも大切だが、それよりも大切なことは、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する「愛」である。 そのような愛があれば、「神は愛である」(Tヨハネ 4:8,16)という聖書の神の真理に到達する時が必ず来る。 「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) 自分の価値観で判断しやすい私たちは、正しいお方は神だけである、という認識を忘れずに、一致を守っていきましょう。 今やうつ大国と言われるようになった日本の国に、この麗しさ、楽しさが伝わり、主にある絆によって、この国が喜びに満ち溢れますように。

“落ち穂”礼拝メッセージより